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2008年9月26日 (金)

平尾台戦後史(その9)

平尾台の平成時代

 平成6年、小倉側からのみ平尾台に通じていた「県道直方行橋線」が完成し、行橋方面に通じた。交通は便利になり通行車は多くなったが、遊園地や観光センターも相次いで閉鎖され過疎や荒廃も進んだ。この後の平成12年に「福岡県平尾台自然観察センター」が、平成15年に「北九州市平尾台自然の郷」がオープンする。両施設とも、平尾台の自然保護地域ではなく、境界線の西側に立てられた。特に平尾台自然の郷は開発エリアと保護エリアの間に分け入るように位置している。

緩衝ゾーンの恊働事業

 平尾台自然の郷の前身の計画「ハートランド平尾台」は100億円以上を投じるテーマパーク構想であった。元々、平尾台にあった遊園地運営会社と鉱山会社が市に提案、協同出資し第3セクター方式での運営を目指すものであった。バブルの崩壊でテーマパーク構想は挫折、公設民営の公園運営会社と変わった。
 かつて、開発か保護かをめぐって対立したどうしが、緩衝ゾーンで行なっていく恊働事業、それが平尾台自然の郷なのである。そして働くスタッフ・ボランティアの多くは、近隣地域の人々である。
 振り返ると、今平尾台で最も親しまれている、大平ー羊群原の景観を始めカルスト台地北東部がまとまって残せたのは、当時の小倉市の執念と地域住民・開拓民の協力のたまものである。よく守ってくれたと思う。そのために人々が無くした夢や権利も少なくない。本当に悔しかっただろうと思う。そういう思いもパークは背負っている。

平尾台これから に つづく

2008年9月25日 (木)

平尾台戦後史(その8)

残された課題

 今でこそ世界中で「開発か保護か」あるいは「人と自然の両立」は大きなテーマとなっている。しかし平尾台は60年も昔から地域・企業・自治体・国そして司法を巻き込んでの論議があり、共生のガイドラインが出された。偉大なる先見性だ。しかし局面ではさまざまな問題を残し、新たな問題も浮かび上がった。

■観光vs.保護
 戦前戦中と閉ざされることで守られてきた平尾台に、「日本観光百選」に選ばれた類い稀なる景観を求め殺到する人々。ゴミ・帰化植物・盗掘・轍・不法開発によって自然の荒廃がはじまる。
■保護による権利の制限
 平尾台の国定公園や国指定天然記念物のほとんどの土地は農家もしくは農業法人の所有地である。その民地の上に「保護のための権利制限」の網掛けをしている。開拓や営農を目指した人々にとっては、挫折や離農にもつながった。
 また鉱業界から見れば、一旦手にした採掘権を放棄しなければならないという、企業存続にかかわる危機でもあった。
■法令・担当所管の複雑化
 所有権はモザイク状、文化財は教育委員会、自然公園は福岡県、鉱山は通産、その他観光、環境、建設と法令や窓口が複雑化し調整が必要で、何かの事態に素早い対応が困難になった。
■広がり始めた「平尾台では何も成功しない」・・・閉塞観
 開拓や農業の挫折、高度経済成長期を過ぎ、観光振興下火化、鉱業の縮小、さらに台上施設の老朽化などは自然環境荒廃や平尾台では何もうまく行かないという閉塞観となっていった。

つづく

平尾台戦後史(その7)

第六幕 産業と観光の両立(自然保護と開発の調和)

 最高裁判決で振り出しに戻った「土地調整委員会」は、昭和43年10月現地調査・審問・聴聞会を行なった。地元平尾台関係者、農業団体、観光施設、教育、自治体、通産、農林、鉱業界、学術、観光、交通、商業、報道などの広い分野から代表者や学識経験者が出席。共通した主張は、「自然保護と利用の両立」であった。
 昭和44年12月、土地調整委員会において、文化財を中心に平尾盆地・広谷・千仏芳ヶ谷など、471haの鉱区禁止地域が指定された。平尾台南西部の台地については、鉱物資源の重要性から、鉱区設定を認めるものとした。昭和24年にはじまった、平尾台の用途についての論議は、約20年ぶりに決着をみた。
 自然保護エリアは、昭和47年10月16日、北九州自然公園に指定された。開発エリアのうち東谷鉱山は昭和42年にグローリーホール方式からベンチカット方式に変更され、境界付近開発側に遊園地が開設された。また昭和43年には平尾台観光センターがオ=プン、昭和45年10月には小倉側の登山道鋪装が完成。平尾台は空前の観光ブームを迎える。

つづく

2008年9月21日 (日)

平尾台戦後史(その6)

第5幕 国定公園の条件;平尾台の保護

 昭和38年小倉市ほか4市が合併し、北九州市が誕生。5月に国定公園の指定条件である、鉱区禁止区域指定のための協議を、平尾住民・東谷農協・行橋市・苅田町と始め、8月に福岡県知事に「鉱区設定禁止方」を要請した。
 昭和39年4月から11月まで、福岡県および福岡通産局との鉱区禁止区域の協議を行い決裂。昭和42年6月14日、北九州市は福岡県知事を通じ、国に鉱区禁止地域指定請求を行った。その面積は769.1ha、つまり台上のほぼ全域の保存を目指すものであった。
 その間、地元の主張は一貫して、開発と保護の共存であった。例えば東谷地区協議会が昭和43年10月に行った申入れは、北東から南西方向に長軸を持つ平尾台を、ほぼ中央の南北線で分け、水源や文化財指定がある北東部の鉱区設定は絶対反対。一方西南部については歴史的にも鉱業利用が行われており、公園指定のための鉱区禁止の必要性は無いというものである。

つづく

平尾台戦後史(その5)

第四幕 開発か保護か? 紛争の複雑化長期化

 昭和27年6月28日の「石灰石試掘認可」、同年12月26日の「土地委員会裁定」に基づき、セメント会社は昭和28年3月6日に大へら地区16haについて「文化財地域の一部現状変更」を申請、昭和29年5月7日に許可を得る。その後の7月7日、東京高裁の「土地委員会裁定」取消し判決となる。同年7月22日地調整委員会は最高裁に上告。
 昭和31年、小倉市は八幡・戸畑・若松・門司の4市と、平尾台を含む広域を福岡県を通じ厚生省に北九州自然公園指定申請。「平尾台の保存が未確定」という点で、昭和32年3月、候補地にとどまった。平尾台紛争は、関係者と法令が複雑に絡み合い、長期化する。
 最高裁の「土地委員会裁定取消」判決が確定したのは、昭和37年月であった。これによって、平尾台のたどるべき道は、農地・鉱業・観光・保護の分岐に再び迷い戻ることになる。

つづく

平尾台戦後史(その4)

第三幕 平尾台紛争は裁判に

 昭和27年6月、セメント会社が申請していた「大へら地区120haの石灰石試掘請願」は認可された。また昭和27年9月、東谷農協は文部省と文化財保護委員会に「福岡県平尾台文化財指定問題」に関する陳情が行われた。内容は、広大すぎる区域に対しての著しい権利制限が発生するというもの。
 一方小倉市は、昭和27年7月、セメント会社の試掘権設定許可の取消しを土地調整委員会に裁定申請。委員会は、同年11月の現地調査・審問を経て、同12月26日、小倉市の異議申し立てを棄却した。しかしその4日前に350haの文化財指定が決定したあとだった。
 昭和28年2月、小倉市は東京高裁に、土地調整委員会を相手取り、昭和27年12月26日の裁定取消を控訴。昭和29年7月、小倉市の言い分を認め、s27.12.26裁定は取消された。

つづく

2008年9月20日 (土)

平尾台戦後史(その3)

第二幕 小倉市起死回生の一手

 昭和22年10月、平尾台が大蔵から農林に移管され、開拓入植のための払下げ手続きが動き始めた頃から、小倉市の「厚生公園構想」が高まりを見せる。昭和26年10月の農地として東谷農協への一括払下げという基本決定で一敗地に塗れるが、その後も小倉市は大へら山から羊群原中心景勝地にかけての80町歩(約80ha)の留保地をあきらめてはいなかった。しかしそれも昭和27年6月10日の県農業委員会の調停でついえ二敗地に塗れる。
 しかし、同6月20日、福岡県教育委員会を通じ文部省に「羊群原を中心に350ヘクタール」の重要文化財保護指定、さらに7月15日福岡県知事に鉱区禁止申請を要請。これが平尾台紛争第二幕の始まりである。

つづく

平尾台戦後史(その2)

第一幕 平尾台は開発利用

 昭和24年2月に始った「農地としての払下請願」は、配分をめぐって紛糾したものの、昭和26年10月に「東谷農協への払下げ」の基本方針が決まった。つまりカルスト台地平尾台は、基本的に農地として利用するという方針が基本決定されたのである。
 またセメント会社や隣接自治体を含む具体的配分については昭和27年6月の、福岡県農業委員会の調停まで持ち越された。特に問題となったのは「大へら地区80町歩」である。石灰岩が最も露出して「羊群原」の典型的景観を見せる一帯である。
 県農業委員会はセメント会社鉱区申請していた80町歩のうち15町歩を東谷農協に払下げ決定し、65町歩は鉱区予定地として留保するというものだった。付帯事項に農地の確保・水源保全・景勝中心地の保護など部分的自然保護への配慮はあるものの、時代がら、食料増産・国家資源開発はやむをえないとした決定だった。

つづく

平尾台戦後史(その1)

発端;観光か?農業か?鉱業か?

 明治45年陸軍省に買収され、敗戦まで演習場であった。江戸時代より戦時中も、採草地として東谷の各地区に利用が許されていた。
 昭和22年10月、復員兵や引揚者を入植しての開墾地として、大蔵省から農林省に移管された。農林省の開拓地入植手続きは、同時に東谷住民と小倉市がそれぞれ採草地および公園としての払い下げ運動を活発化させた。平尾台・東谷・開拓入植者も農地配分をめぐっての紛糾となった。

 この三つ巴・四つ巴の土地争いが「平尾台をめぐる紛争」の始まりである。

 昭和26年2月、この火に油を注ぎ風で煽る事態が起こる。鉱業法石灰石鉱物指定である。各セメント会社はいっせいに平尾台各所での試掘を出願した。平尾台の利用は大きく観光/農業/鉱業の3つに分かれての論争となった。

つづく